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転職
当時は必死でした。
ちなみに、転職のときの参考にはなりませんw





H15年10月半ば:
このころ、カミさん(正確にはまだ同居人と称されるころ)と当時の会社について論議を交わす。
結論はすぐ出ました。つまり、やめるって事。
新しい職場をどうするかについても論議を交わしました。
カミさんの知り合いが結構その道に詳しいということで、話を聞くことにしました。



H15年11月終わり:
カミさんの知り合いであるKさん(特に親族関係の方とかそういうわけではないです)と、
昼休みに飲食店で出会う。
とりあえずスキルシートを見てもらい、どの程度の賃金でいけそうか見積もってもらう。



H15年12月初旬:
Kさんと2回目の会合。もちろん昼休みを利用。
見積もりが出たらしい。
「いまのZilさんのスキルですと・・・最低これくらいですかね」
見せてもらった金額は、当時の給料の2倍以上であった。
ありえねぇ。
帰ってからカミさんと協議。
・・・協議するまでもなく、Kさんのお世話になることに。
となると、あとは会社を辞めるだけなんだけど、どう理由をつけてくれようかなぁ。



H16年1月6日:
会社の新年会。皆様方いい気分で飲んでらっしゃる。
このころ、私は一人で別会社に出向していたため、
上司やそれ以上の管理職と会う機会といえば、特別な場合を除けばこれくらいしかない。
ということで、辞職を切り出す機会もここしかなかった。


Zil「すいません、ちょっと話いいですか・・・?・・・実は、お暇を頂戴したいんですけど」
上司「・・・っておいおい、冗談だろ?」
Zil「冗談でこんなこといいませんって。私もこんなこといいたくなかったですけど」
上司「・・・何が理由なの?言ってみぃよ」


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本当の理由:
・給料安いから&給料が全く上がらないから
 →つうかありえねぇよなぁ?自社でネット見てるだけの人が給料上がって、現場の人はなしのつぶてなんて。
・部下つけるって言って何年もたってるから
 →一人じゃ仕事するにも限界あるっていつも言ってるのに。
・会社の改善点とか言ってもすべてかき消されるから
 →この話題で殴り合いにまで発展したことあり(始末書書かされました)
建前上の理由:
・親が倒れたから
 →一番オーソドックス、かつ深く突っ込まれない
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本当の理由なんてもちろん口が裂けても言えやしません。
この間約5秒。


Zil「・・・実は・・・ちょっと親が倒れちゃいまして・・・」
Zil「向こうも結構人手がたんないらしくて、できれば帰ってきてほしい、と」
Zil「で、考えたんですけど、親の力になるなら今しかないかな、と」
上司「おまえ、えらいなぁ・・・。わかったよ、とにかく上には伝えとく。できれば早目がいいんだろ?」
Zil「あー、そうっすね・・・。できれば、2月末ぐらいまでにはお願いしたいんですけど・・・」


情に訴える作戦成功。
演技力が問われる場面だったが、
高校のとき不良どもに襲われたときなみの迫真の演技でこれをクリア。
もう一度やれといわれてもできません。



H16年1月16日:
前日に、家で退職届を書いて、封筒に入れて会社に提出。
どんな会社でも、退職届を書くというのは切ないもんだと思いました。
ちなみに、やめるって事はとっくに会社中の人間に知れ渡ってました。

「お前いなくなると寂しいなぁ」
「誰が変わりにLinuxの講義やればいいのよ?」
「うるさくなくなるからよかったよ(笑)」
「便利屋がいなくなる、か・・・」

等、いろいろ聞いて家に戻ってきました。
お前らいままでそういう風に思ってたのかよ。



H16年1月19日:
出向先に、私の後を引き継ぐ人がやってきました。
私とは違う会社の人なんですけどね。
私の役目は、引継ぎを滞りなく済ませることのみ。
大体、ここに着てからというもの、ロクに開発がなかったというかちょっとした修正だけだったので、
引き継ぐことなんてそうそうないのですが。




H16年2月4日:
出向先の会社に、午前中は自社に用があるという名目で外出。
そしてむかった先は次の会社候補。つまり今日は面接の日です。
面接は超楽勝。
まあ、面接なんてきっちり聞こえる声で、相手の目を見て言えばものを言えばいいだけですから。
わからないことはわからないと答えればいいし、むしろ逆質問してもいいくらいでしょう。
その場でOKもらいました。
午後からは何事もなかったかのように出向先の会社へ。
別にすることもないんだけどなぁ。



H16年2月26日:
ということで、今日は本社に立ち寄って、退職に伴ういろいろな書類の書き込みに。
サクッと終わらせて、上司に誘われて飲みに行きました。

「あー、やっぱお前いないと仕事つらいわぁー。」
「あっち(私の親がいるところ)にも支社あるから、そこで働かね?給料は弾むよ」

こんな土壇場で引き止め工作しないでください(汗)。
一応給料聞いたけど、全然話になりませんでした。
別れの挨拶を求められたので、

「私は明日を持ちまして職場を離れますが、
 思えばいろいろありました。
 会社の先のことをめぐって殴りあいになったりとか、
 会社のサーバーに入って始末書書かされたりとか、
 いきなり韓国やらアメリカやらに出張されられたりとか。
 今思い出せるのはロクでもない思い出ばかりですが、
 時間もたてばこれもいい思い出となるでしょう。
 皆様方に置かれましてはどうぞ体調にご留意くださいますよう。
 どうもありがとうございました」

結構白い目で見られたけどまあいいや。
もう会うこともないだろうし。



H16年2月27日:
本日は出向先で送別会を開いてもらいました。
そのなかで、サービスインというかもう世間一般に出回ってしまったアレがバグっているという報告を受けました。
あー、いきなり新機能(それを使うと詳細は省きますがバグが直せます)の出番じゃないですかー。
実はそれもバグっているという話も以前から聞いているけど、今日で終わりの私には関係ありませんし、
そもそもそれらの機能は私と無関係ですし。
せいぜい、どれだけ騒がれるかを外部よりまったりと見物させてもらうのみです。
全員でその報告を笑い飛ばしながら宴会終了。

お疲れ様でした。
皆様方は明日からバグ地獄でしょうけど。



H16年3月1日:
本日より新しい会社でスタートです。
とりあえず、アレがバグってるってことを話題にしときました。
面白かったです。

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by zilzal999 | 2004-11-29 17:00 | 過去
父親との歴史
筆者はいわゆる母子家庭の子供として育った。
母親と父親が離婚したからそうなっている。
筆者が小学2年生の夏のときのことである。


離婚した理由は知っている。
父親の浮気だ。
それを知ったのは中学3年生の冬だった。





筆者の家庭が崩壊へと向かった転機となる事件を筆者は知っている。
筆者の弟の身の上に降りかかった災難がそれだ。

当時筆者たちが住んでいた家の風呂は湯沸し式で、
これは風呂を沸かすと「熱湯の層」と「冷水の層」とにわかれる。
これをかき混ぜることによってちょうどいい温度のお湯となる。

当時、2歳になったばかりの筆者の弟。
父親が一緒に風呂に入ろうとしたとき、すこし目を話した隙に弟がかき混ぜてもいない風呂にダイブ。
全身に大火傷。
すぐさま救急車が呼ばれ、救急病院へと搬送された。
その病院に偶然居合わせた、形成外科の権威といえる医師がいなければ確実に命を落としていたらしい。
# 本当は意味合いはちょっと違うかもしれませんが、
# 火傷とかの治療、特に皮膚移植に関しては、知らぬ人はいないくらいの人だったらしいです。

人体の表面積の50%以上を火傷が占めていた。
「助かる見込みは五分五分」と宣言された。
弟は3ヶ月間ICU(集中治療室)にて隔離された。
両手両足に点滴の管がつながっており、予断を許さぬ状況が続いた。



弟のいない家庭にて、だんだん、責任の押し付け合いが始まる。



「あなたなんで目を離しちゃったの?まだ小さい子供なのよ!!」
「そんなこといってもしょうがないだろ!ならお前もしっかり見てろ!!」



ICUに入れるには金が必要だ。
母親はその金を少しでも工面するためパートに出た。
共稼ぎとなり、筆者は鍵っ子となった。

結局、半年間入院して一命を取り留めた弟だったが、
火傷でただれた皮膚が突っ張るため、いくつかの間接の稼動に障害を残した。
# これは後に手術にて全快しました。



この事件以降、ゆっくり、そして確実に家庭は崩壊の危機へと向かっていった。



共稼ぎになると、家族同士の接点が確実に少なくなる。
父親はその接点の少なさを、他の女の人で埋め合わせした。
# もちろん後に聞いた話
自分が埋め合わせるのはそれでいいが、残された家族の接点はさらに少なくなる。
悪循環である。





筆者が小学2年の夏休みに突入したとき、
母親がバッグにいろいろな荷物を入れているのを見かけた。
「一緒に行く?」
「うん」
旅行先は伊豆であった。
が、旅行先から家に帰ることはなかった。





それでも、長い休みに入るたびに筆者と弟は元の家に帰っていた。
両親の間でなんかそういう約束でもしてたのだろう。
そういう生活が中学の中盤まで続いた。
会うたびに、父親はこういうことになったことをしきりに詫びていた。

「今はまだお前とは酒を飲みながら話もできないが、大人になったらゆっくり話をしよう」
「20歳になったら、お前に対しては両手をついて謝る」
「再婚はしない」

そんなことを繰り返し言っていた。
中学の時点までは、特段に父親を恨んでいたとかそういうことはなかった。
こういう言葉を聞いていたし、過ぎたことだからしょうがないかな、くらいには思っていた。



が、この人の約束は、裏切るためにあるようなものらしかった。



まず、筆者が高校を卒業する直前に、父親は再婚した。
思いっきり棒読みで「オメデトウゴザイマス」とだけ電話で言ってやった。
それが、当時の筆者にできる最大限の仕返しだった。
それだけならよかった。
人の恋なんて、いつ始まるかわからないものだし。


筆者が20歳になった日、電話をかけてみた。

「もしもし・・・俺だけど。今日、俺の誕生日なんだよ。20歳になったんだぜ」
「中学のとき言ったことを覚えてる?」
「今度機会があったらゆっくり飲もうぜ・・・」


と。返答は、想像上ではありきたり、かつ現実的には想像を絶するものだった。


父親「そんな話をした覚えはない!!」
筆者「言ったじゃねぇか。ゆっくり話をしようと。両手ついて謝るんじゃなかったのか!?」
父親「誰が誰に謝ることがあるんだよ。言ってみろ」
父親「そもそも、お前はもう俺の息子でもなんでもない!」
筆者「最低だ・・・」
筆者「お前の葬式には絶対顔ださねぇ。血がつながってるからと思ってたが、もうこれまでだ!!」


これ以降の会話はない。
向こうが電話を切ったからだ。
当時の筆者としても電話を掛けなおす必要性を認めなかった。
今でも連絡を取る必要性は皆無だと思っているし、
これから先、連絡を取り合う可能性は絶無だろう。








筆者の父親は見習うべき存在だと思う。
ただし、反面教師として。
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by zilzal999 | 2004-09-02 12:37 | 過去
高校~現在まで
ただ漫然と生きていた。
だから、近くの高校に入った。
近かったから。そして中卒というのは厳しすぎると思ったから。それだけ。
面接の時にはもっともらしい理由を述べたけど、でっちあげ100%だった。


その高校は、もうなんというか、どうしようもなかった。
昔から「廊下を自転車が走ってる」なんて事を聞いていたし、
苛めの噂なんて噂にならないほど日常的。
短ランにリーゼントってイメージがよく似合うところだった。

「魁!男塾」が近いイメージだ。
1年。2年。3年。
そういったのほほんとしたイメージではなく、
1号生(奴隷レベル)。2号生(鬼レベル)。3号生(神レベル)。
厳然としたクラス分けがなされていた。
ちなみに、男塾みたいに戦いによって下克上がなされるなんていうことはなく、
奴隷→鬼、鬼→神にクラスチェンジするには1年我慢するしかない。


平成の世の中でこれである。
当時の日本全国を見渡しても、これだけの環境を擁する学校なんてそうありはしないだろう。

これら環境については、和魂要塞の「死線」というカテゴリで詳細に語られているし、
「勝手にリンク」から飛べる「無法半島」にも何度となく出てくる話題である。
両者にこれほど書かせるまでに、インパクトのある高校だった。


これじゃやばい、どうしようもない。変わるしかない。教師達はそう思ってたんだろう。
筆者の代から、制服がブレザーに変わった。
入学試験も、「誰でも入れるレベル」からかなり厳しくなった。
イメージチェンジってやつだ。
筆者の代は、間違いなくその先兵、生贄とされた。


単純に学力だけで考えた場合、レベルが低いのを入れなければ相対的にレベルは高くなるのは必然。
それは厳しくなった入学試験において考査すればいい。
じゃあ、そのレベルの低いのはどこに行けばいいかというと、
今回、それはまったく考慮されてなかったわけで。
街中にあぶれるしかないんである。
そうしてそれらは、校内ではなく、町内において触れるとまずい地雷。
--いや、埋まってないから誘導兵器といったほうが正しいか--
と化していった。






201V1は小学校高学年のころに筆者の住む田舎に来た、いわゆる転校生であった。
そのころから目立ちすぎるほど目立っていた。
出る杭は打たれる。
高校に入ってまもなくして、不良たちは目立つ201V1をこれでもかといわんばかりに攻撃した。
201V1はそれに屈しなかったため、攻撃は苛烈を極めた。


201V1と遊んでいた筆者のところにも、電話がきた。
「もしもし?」
「201V1の電話番号を教えろ」
「すいません・・・失礼ですがお名前を頂戴できますか?」
「誰だっていいだろう。とにかく教えろ」
「誰だっていい奴に電話番号を教えることは・・・できませんね」
ガチャッ。
筆者から電話を切った。
さすがに友人を売ることはできなかった。
それなら本気で死んだほうがマシだと思った。
これで筆者の高校における立場が確定した。
彼らの、敵である。



風当たりがきつくなってきてるのはわかっていた。
校内でも平気でタックルとか食らうし、胸元掴まれて脅されるとかもされた。
しかし、タックル食らってもすこしふっ飛ばされるだけだし、
脅されたところでその脅しはなぜか全くといっていいほど怖くなかった。
友達を売らなかった報いがこれなら安いもんだと思っていた。
一人の友達をつまらん事で失うよりよっぽどいい。



ある日、同級生とかとカラオケに行った。
帰り際、待ち伏せされていたかのように不良たちに囲まれ、襲撃された。
どうやら目標は筆者一人で、あとの同級生はというと後ろから黙ってみてるだけだった。
なるほどね。


筆者は201V1のように柔道とかをやってたわけではなく、普通に鈍くさい人間だった。
だけど、状況判断だけは人一倍だと思っていた。
囲まれたら通常逃げるのは不可能。なら今はやられるしかない、か。


後ろから足払いが来るのがわかった。
そしてそんなのでは転ばない威力だっていうのもわかった。
明らかに筆者を軽く見てるに違いない。
この足払いでわざと転ぶ。
先に転んでおいたほうが、あとでいいのを貰って変に頭とか打つよりマシだと思ったからだ。
不良たちは筆者を転ばせて多数で詰め寄り、大振りの蹴りとか打ち下ろしとかで筆者を攻撃する。
ただ、どれもが大振りなので、事前対処=防御、急所を避けるというのは意外と簡単だった。
中学の柔道の授業で、受身の練習やら201V1に投げられたりとかした経験が生きたのかもしれない。

「こいつ蹴ってみろよ!気持ちいいぜ!!」

そりゃあそうだろう。ある程度音が鳴るように蹴りを受け止めて、大袈裟にうめき声出してるんだから。
さすがに複数できたため、腕と背中にいいのを一発ずつ貰ったが、
むしろ本当にやられてることも見せなければこの攻撃は終わらない。
演技力が問われる場面である。


不良たちが引き上げていったあと、スッと立って同級生を見た。
やっぱりいいのを貰うと痛いが、歩けないとかそういうことはない。
まぁ、痣になるとかその辺だろう。
「ご、ごめん。止められなくてさ。大丈夫か?」
わかってるって。お前たちも後がなかったんだろう?
ただ、そういう人たちってことね。
心の中で納得した後、珍念の家に少し立ち寄ってから家に戻った。


家に戻ったら筆者の母親に問い詰められた。
何をされたのかと。
最初は「関係ない」と言い張っていたが、結局すべてを言った。
学校の内外で狙われてるっぽいこと。
今日、囲まれて見てのとおりの状態になったこと。
学校では見てみぬふりっぽいこと。


それを聞いて、母親は地元の警察に駆け込んだ。
しかし、まるで取り合ってもらえなかった。
聞いた話だと、地元ぐるみで有耶無耶する気配満点だったらしい。


その当時、筆者の母親は伊豆でも結構有名な旅館でサービス室長をやっていた。
旅館が有名なだけに、いろいろな関係の人が来る。
そして、筆者の母親は結構そういう人たちと懇意にしていた。
(実家に行くと今でもそういう年賀状とかが来てたりする)
当時においても、○○組系とかではなく、○○組そのものの幹部ご一行の名刺を貰ってたり、
かと思えば筆者が住んでいた県の県警のトップの名刺を貰ってたり。
筆者の母親は、今回警察に取り合ってもらえなかったことで、その人脈をどうやらフルに活用したらしい。


筆者の母親がどこかの居酒屋に飲みに行ったとき、
そのまるで取り合ってもらえなかった警察官が店内にいるのを視認した。
その警察官は、酒を大いに飲んだ後、車で帰った。
ナンバーを控え、その場で地元の警察署に電話した。
「警察官は飲酒運転していいのか」
どうやら有耶無耶にしそうな気配だったらしい。
「ならいい。いまから県警のトップに来てもらう」
「こないだ取り合ってもらえなかったことも洗いざらいしゃべる」
そして母親は本当に県警にしゃべり、飲酒運転した警察官は即刻首になった。
どうやら組織ってのは上から言われると機械的に作業が早くなるものらしい。

さらに、これを境に筆者に対する攻撃がパタリとやんだ。
裏で何があったかは、想像には難くないが知る由はない。


201V1も、苛烈な攻撃に負けてはいなかった。
高校で起こったことを刑事事件にし、学校のすべての状況を教育機関に曝け出し、
現存の教師たちを揃って首にする(これは後に聞いた話)という離れ業をやってのけた。
筆者が意地を通したかどうかはともかく、201V1はどうやら意地を通したようだ。


このころ、201V1から何回か電話が来たことがある。
「大丈夫かZil。お前まで巻き込んじゃってごめんな」
みたいなことを毎回言っていた。
あいつはものすごく申し訳なく思ってたんだろう。
結構何でも自分で背負い込んじゃうタイプの人間だし。
ただ、筆者は201V1の騒動に巻き込まれたわけではなく、全く別個の問題だと思っていた。
今でもそう思っている。


中学のころは、この田舎でずっと生きていっても全然OKだと考えていた。
なので、1年のころは進学クラスには入っていなかったのだが、
高校のころにこういうことがあって、絶対ここから離れてやる、と考えるようになった。
ただ、この土地から離れる方法として高校生の筆者にできることは勉強しかなかった。
勉強して、上の学校に行って、それでもってこの土地から離れる。
1年のとき、在籍していたクラスで半端ではない成績を叩き出し、2年になって進学クラスに入った。
(冗談ではなく、1年のころはクラスのほかの人が各教科で最高点を寄り集めても、筆者一人にはかなわないくらい)


そして、卒業と同時に横浜に行った。
横浜に来て、あの土地があまりに閉塞した環境にある、と改めて感じた。
すべてが違いすぎた。
こっちに来てからは、あまり田舎には戻っていない。
本格的に戻ろうなんてこれっぽっちも思わない。
そんな感じで、あれからもう10年が過ぎようとしている。


しかし、いつか、あの過去と正面から向き合うために、
一回はじっくりとあの土地に行かなければならないんだろうな。
きっと。
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by zilzal999 | 2004-08-23 13:24 | 過去